■エッセイ

1.デザイン11人の先生の教えー2.ひとよりもほんの少しだけ丁寧にしてきたS.Y氏

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 S.Y氏の教えは、「僕は同期の仲間よりもほんの少しだけ丁寧にやってきただけなんだ」である。僕は社会人になって新人の頃(1979-1982 年頃)に聞いたこの言葉を今まで忘れたことは無い。自分がその教えを守れたかどうかは疑わしいが、今まで、なんとかやってこれたことの要因のひとつであることは疑いの余地はない。これは僕が初めて社会人になった時のT社デザイン部の重電産エレグループ事務機器チームのチーフデザイナーS.Y氏の言葉である。氏のそばでS.Y氏に対するS氏の同僚やもっと上の上司の方の接し方を見て、やっぱり皆さん一目を置いている人なんだなー、できる人なんだなーという印象を新人ながら思っていた。氏の相手に対する言動を見て社会人として、上司として尊敬できる人だと思った。正論だけを軸にしたエリートとは違って人間味のあり、しかしいつも筋が通っていた。部下をかばうことも忘れなかった。笑わせることも。僕らのクライアントは同じ社内の商品企画や設計者であったが、そのような他部門の人間との接し方もスマートであったし間違いがなかった。いつも僕の社会人として欠けていた部分を指摘してくれた。S.Y氏はもちろん本来、工業デザイナーであり、優れたアイデアでヒット商品デザインを出したことが、氏の評価を格上げさせたことは間違いがないが、短い期間に一緒であったが、マネジメントの合間に描くスケッチもさすがプロのデザイナーのアウトプットであった。

 僕が大阪門真のPに比較しT社のデザインの平均点が低いことはむしろ入社の動機でもあったし、しかしながら、その中でT社のデザインになかにはP社には真似のできないすばらしいデザインポリシーを感じるもの、光る美しいデザインがあった。それは企業の中に入ると実はもっと多くのT社デザインのレベルの高さを感じるのだが。多くはP社が参入していない、参入できるはずもない伝統的な技術と規模のBtoBビジネス、社会インフラにその力は発揮されていた。P社と競合する家電製品のカテゴリーの多くはP社に軍配が上がっていたと思う。当時学生の憧れであったマルチバンドのトランジスターラジオ、HiFiオーディオ、ブラウン管のテレビではP社が勝っていた。もっともそれらのカテゴリーは国内デザイントップのS社は別格の世界観を作っていたが。そのT社の家電で優れていたのは、真空掃除機と全自動洗濯機であった。そのひとつの全自動洗濯機は当時アパートに住んでいた僕が初めて買ったT社の2番目の製品である。明快な造形と優しさをともなった非常にオリジナリティーの高かった洗濯機のデザインはT社デザイン部門に希望を与えたデザインであった。学生の頃からそのデザインを知っていた僕は後に入社して初めてその作品がS.Y氏作の物としった。その他にもY氏の家電のヒット作は加湿器などにもあった。T社の場合必ずしも優れたヒットデザインを創出したデザイナーがマネジメントに格上げされるとは限らなかったが、S.Y氏がデザイナーとしてもマネジメントとしても優れていたのは僕にとってとても幸運であった。なぜなら残念ながら、T社にはデザインのすぐれない者がマネジメントに行き悲劇を生んでいることがあった。当時のデザインマネジメントの仕事は若手にも大きなチャンスを公平に与えてくれた。もし、最初の僕の上司がS.Y氏でなかったら入社早々の僕が主力の量産モデルを担当できたはずはない。T社のデザイン部はそのようなことで殆ど多くのビジネスユニットごとのデザインチームは優秀な人材であふれていた。世界初のノートPCなどは世界トップのシェアと真似のできない独走態勢で会った。デザインも力が入っていた。F課長と担当のS氏がひざを突き合わせてデザインを詰めていた。僕がT社を退社する1985‐1986年ごろの話である。

 新卒で入社した僕は今にして思えば同期のデザイン学生には負けないほど4年間勉強してきた自負があったし、19歳の時の共同制作が毎日コンペ入賞など作品の質ともに実績を残してきたと少しの自信があった。それは入社試験ではまだ就職の厳しかった年でありながら受験した大手企業3社(T社、Sei・・社、FZ社)の全内定が物語っていると思っている。しかし、社会人としてはてんで出来て無かった僕は世間知らずのボンクラであったので、社会人としてのふるまいについては、当時重電産エレ課長であったM課長や直属の上司チーフデザイナーS.Y氏によく怒られ、矯正していただいた。

 実は、上司S.Y氏は学生の頃から縁があった。S.Y氏は、時期は正確に覚えていないが、1978年秋(10月頃)入社試験の年の数か月名に行われた夏季東芝デザインゼミの僕の配置された電卓デザインチームのチューターであった人である。チームは5名ほどに分かれていた。ちなみに、東芝デザインゼミはインダストリアルデザインコースのある全国の大学、高専から1~2名づつ参加できた3泊程度の研修であり20~30名の参加があった。南は、九州芸工大、金沢工芸、大阪芸大、京都工芸繊維、京都市立、東京芸大、武蔵野美術、多摩美、東京造形、日大芸術、女子美、千葉大、育英高専など各大学2名程度の参加があったのを確実に覚えている。当時の岩田部長以下課長、チーフデザイナーなど全員が講師やチューターとなり学生に研修の機会を与えてくれた学生にとってはありがたいイベントであった。その研修で知り合った他大学の学生は後々まで付き合いがあった。僕は、大学2年の時にインダストリアルデザインコースに進学してから土日以外基本的には毎日大学に通っていてデザインの勉強に打ち込んでいた。2年の夏休みには、毎日デザインコンペに打ち込み、3年の夏休みもほぼ毎日木工室に通って後藤先生の課題である多機能家具の制作に励んだ。大学構内に毎日いたこともあり先生との距離もそれまでの高校、中学では無かったような身近な存在となっていたし、親友となった2人の同僚と共同制作をした毎日コンペなどで応援してくれたり、家具の展覧会に知久先生をお呼びして寸評をいただいたりということで研究室との距離が非常に近かった。そのようなわけで、同じIDの仲間と結構強い絆が出来ていたこともあり、僕がT社デザインゼミを希望すれば他の仲間は遠慮してくれた。

 話は戻る。T社のチーフデザイナーS.Y氏は、同期の中で際立って所謂出世の早い人で、会社の人事格付けでは主務(主任に相当)かつチーフデザイナー(部門での職制)であった。入社した後、僕はしばらくして社内インハウスのデザイナーの世界のヒエラルキーに気が付いてショックを受けた。その仕事ぶりと格付けに疑問を持ったからだ。あるチーフデザイナーは優秀であったが、同じチーフデザイナーの仕事をアサインされつつも、出世コースと出世できないコースに分かれていた。今では信じられないが、現場で最も評価の高いデザインマネジメントが上に格付けされない理不尽さがあった。このような事を若いデザイナーは感じていたし口にしていた。例えば、あるデザイナーはデザインの影響力がなかったが、先に主務となった。あるいは、ある優秀なデザイナーは、それよりも明らかに勝るとは思わないデザイナーが先に主務となった。話を聞くと、この会社の評価制度という難解なものが関係していた。何か理由があり現場の社員間では明快な理由としてシェアされていた。僕たち平の仮想の若いデザイナーの多くはその評価制だが好きではなかったはずだ。見て見ぬふりをしていたかもしれない。

 JIDAの発行する日本のデザイナー名鑑には東芝から2名のプロフィールの紹介があった。一人は当時の東芝のナンバー2、K部長は家電グループ長であった。もう一人は、M課長である。当時の右も左もわからないような丸腰の学生の頃はプロになることを切望しあこがれていたのでGOODデザインの審査委員長であった知久先生やJIDAの会員というのにステイタスを感じていた。そのような日本のデザイナー名鑑に出るような憧れのデザイナーであったM氏は僕の所属するデザイングループの課長であった。入社してみるとその課長はその地位とは裏腹に正直、輝きがなかった。仕事中に居眠りしている課長がいる一方、日ごとの仕事っぷりから明らかに誰もが認めるような有能なチーフデザイナーが高卒というだけで課長に慣れないことが当たり前の会社であった。

 僕は昔、SYさんは、なぜ同期の中で、格段に出世が早いのか聞いていたことがあった。その回答は「僕は同期の仲間よりもほんの少しだけ丁寧にやってきただけなんだ」という心得であるという。だから僕は、その後、大学教員となって学生から社会で成功するにはどうしたらよいかと聞かれたり、卒業修了する学生には社会に出て成功するための言葉の一つに必ずS.Y氏のその言葉を送っている。