■エッセイC

100歳の時代どう生きるかー1.父に教えられ、子供に教えられる

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 僕がもっと若かった頃、父も母も不要になった物などを捨てることが下手だと思っていた。それぞれに思い出があるからだ。昭和の時代の実家には押し入れに使わなくなったものや思い出のもので一杯であった。父は戦争を経験していて近衛兵三部隊通信隊の一員に配置され戦場に行っている。戦後の物が不足している時代から戦後の急成長を支えてきたのが僕らの父の世代だ。だから、もったいなくて物を思い切って捨てられない世代なのではないかと長い間信じて疑わなかった。ある時、昔、僕が学生時代に学校の課題で製作した手作りの模型「多機能家具」を庭の物置から引っ張り出してリビングに置いて使っていた。また、ある時は、これまた家具の習作として僕が即興で作った一対の椅子を引っ張り出して自室の部屋の椅子として使ってテレビを見ていた。これなどはベニヤ板を切り出してボンドと木ねじで締めただけの仕上げもしていない粗末な試作品といった風情で父には似合わない。それを見かねて僕は椅子が欲しかったのなら今度良いものを買って実家に行こうとほんとうに思っていた。そうこうしているうちに購入は忘れていたが、ちょくちょく背もたれの寸法を伸ばしたりしてカスタマイズして楽しんでいた。見た目よりも座り心地が良かったらしい。

 僕たち夫婦には子供が二人いる。二人共もう立派な大人だ。大人の年齢だが親にとっては生まれたての赤ん坊をこの手に抱いたときの感触がまだ記憶として残っていて、その成長も今日にいたるまで連続して見てきているのでいつから大人になったのかも分からづ呼び方もいまだに子供のときと同じだ。そう言えば昔、母がこの様な事を言っていた。お正月に祖母の家にみんな集まるとき祖母が当時60歳近い僕の父を「あの子は・・・」と子どものように呼んでいたのだと、子供扱いする祖母に笑ってあきれていた。今、自分がその歳に近つき親になって祖母の振る舞いは極めて自然な事とわかった。

 自分が子供の親になったとき、君がなぜ此処にいるのか、なぜ生まれてきたのか、父の気持ちを知る。子供のころ父はハードワーカーであった。中小企業の役員であったので、日本が豊かになり 週休2日制が当たり前になる頃までは、休日は日曜のみであった。夜も帰宅が遅い時もあったし、しばらく、日曜日も休日出勤していた。だから父が子である僕ら兄弟をあまりべたべたと接する姿を見たこともなかったし、逆に怒られることもなかった。今にして思えばほんとうは父も子供をかわいがりたかったに違いない。これも晩年父が脳梗塞で倒れた後だったと思うが、母が父から聞いた話だが、父が生まれたのは東京の千住ではなく実は、広島の松坂家に養子に入った祖母にできた子供であり、広島の本家には居ずらかったので東京へ追い出されたように幼い父と上京し千住に住んだようだ。父は東京で祖母が結婚し兄弟が増えるまで長い間孤独であったのではないかと思う。というのは、東京に父を連れて、引っ越した祖母であったが北千住にすんだあと後、僕の若くして亡くなった祖父と結婚し、三男二女が生まれた。ということは、連れ子であった父はだんだん増えていくあたらしい兄弟がうまれにぎやかになった板橋の家は幸せな時代であったのではないかとぼくは想像する。しかし、父以外は父親の違う兄弟であったことは父は知っていたからさびしい部分はあったのではないかと思う。幸い祖父は海軍出身で立派な人であったと聞いていて、おそらく父に対しても実の子5人とも分け隔てなく付き合ってくれたのではないかと思う。しかしながら、子供のころ、あまり父と遊んだ記憶もなく、なついでなかったのは、父が幼少の頃甘えさせるような関係を体験していなかったので子供との接し方が分からなかったのではないかと思う。

 結婚して35年経ったが僕たち夫婦にとってもっとも大切なものは明らかに二人の子供である。子供を育てていくと大きくなって教育費の重負担であったり進路や社会でやっていくための力であったりが絶えない。その都度、父がこう思っていたんだという確信が僕を納得させてくれ感動を覚える。だから僕は、ぼくがこの世に生を受けいままでに学んだことだけでは想像のできない多くのことを子供を育てることで父を理解し人間として成長できるのではないかと思う。苦しくても子供には、いや苦しいことも大きいからこそ子供にも経験して貰いたいことである。しかも子供が成長したときそれまでの費やした時間と金に対して余りあるほどの充実した人生を送れるのではないかと思っている。家内はこどもにべったりの半生であるからもっと子供への愛情が深いであろう。しかし、親の心子知らずで子供はどんどん変化するものだ。学生の頃はこのようなことを、想像だに出来無かった。

 ある時、わが家のもう使わなくなった子供の積み木やおもちゃ、こどもの描いた絵などしまっておいたものを見つけた。家内がしまったのかもそれほど記憶がなかった。その時、父がなぜみすぼらしい僕の習作の椅子を引っ張り出して使っていたのかわかった。「その時、ガーン!!」と頭の中で聴こえた。そうだったのか、そういうことだったのかと。父は新しい良い椅子が欲しかったわけでもなく子供の作ったものを捨てることが出来なかっただけではなかったか。自分が親になって初めて父の気持ちを学んだ。僕は大人になってから学校では学べない貴重な教えを父の背中を見て学んだ。

 

 もう一つ、父から教えられたことは病気に関する知識だ。11年前の春、父は92歳で永眠した。現役を退いた70歳過ぎ、それまでまったくそのような兆候もなくゴルフなどを趣味として比較的行動派だった父は12月30日の朝、ルーティンの犬の散歩の途中で、ふらっと、したという。犬に引っ張られたからと信じていたようだ。その夜、僕は帰省で孫を連れて実家に帰っていた時にその朝の話を聞いた。しかもまだ、手足がしびれているという。恐らく父も自分の身にただ事ではない何かが起きているということを感じながら不安な一晩を過ごしたのであろう。僕も心配であった。翌朝、元旦に長男の兄夫婦がやってきた。昼食後にその話をすると病院に行った方がよいのではと強く義姉が勧めてくれて、たまたま会員であった板橋ロータリークラブの開業医に相談したところご親切にすぐ見て貰えるということで車で医院まで連れて行った。そのあとは即入院ということで、翌日、手配くださった日大板橋病院へ転院となった。その後約3か月の入院生活となった。先生方の治療で幸い命を失うことはなかったが、残りの半生、半身不随の生活がはじまった。そのような父の姿から脳梗塞という病気の恐ろしさを学んだ。血管の病気に対しての「無知」だった。父も母も僕もピンとかなかったのだ。以前から父の健康を凄く気遣っていた母も常に気を付けていたのが「糖尿病」「血圧」であった。恐らく当時のマスコミは高齢者の危険な病気として頻繁に糖尿病の怖さを報道していたのでh無いだろうか。長嶋監督のような頑強な体の人も脳梗塞で倒れた。脳梗塞は血液と血管の健康に関する病気であるから、日頃から注意することはもちろん、その兆候を受けたら1秒を争う病気だ。そのような告白を受けたときもし救急車を手配していたらもっともっと父の老後は充実していたものであったろう。それまで、自動車を運転することとゴルフが好きだった父はその日からその楽しみを失った。入院から3か月ほどで退院となった父を外に連れていくために僕の家族はミニバンに変え、しばらくの間は毎月父の元を訪れ孫と一緒に朝霞のイトウヨーカ堂に連れて行った。少し父の生活が日常に戻りつつあった。笑顔も戻った。母は、感謝してくれていたが、せめてもの父への償いのつもりであったのかもしれない。