■街歩きコラム

1-5.ル・コルビジェ 


 隈研吾著「溶ける建築」では、「ミースファンデルローエとコルビジェはヨーロッパにおける古典的な建築に対してこの二人が建築における新しい時代の騎手であった。グロピウスは古い体制側にいた」というようなことが書かれている。建築界にとってモダーン建築の父はミースとコルビジェという理解であろう。

 コルビジェは映画コルビジェとアイリーンに描かれているような人物であったのだろうか。ここではアイリーングレイの才能に嫉妬するあまり好意的な男には描かれていないが、晩年のその功績は日本の建築界にとって大きな影響力を残した。日本の建築家がヨーロッパで認識されたのは1925年のパリ万博における日本館を設計した坂倉淳三ではないだろうか。

現存するコルビジェの5つの建築思想を引き継ぐ建築家の手になる建築は国際文化会館、西新宿駅前の広場、等々だがパリのコルビジェの事務所で勉強した前川國男、坂倉準三、レイ モンドの事務所にいた吉村順三などが日本の機能的な建築の時代を築いた。

 ル・コルビジェも、ご多分に漏れずもともと建築を志していなかった。坂倉準三も大学で建築を学んでいない。建築家になるためには何が大切なのであろうか。


 古典的な建築は伝統的な様式や意味を求めているが、現代建築の対象は空間である。

 コルビジェの近代建築の5原則

1.ピロティ

壁に強度を持たせるのでは無く独立柱によってさせられている空間をピロティ―という。一般的にその特徴は、一階部分は吹き抜けで2階以上に構造体に影響しない壁や窓で今日住空間を作っている

2.自由な空間

3.自由な立面

4.水平に横長な窓

5.屋上庭園

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



1-4.明治から令和の建築のある風景:千住郵便局電話事務室 山田守 (1984年ー1966年)建築

北千住の駅から日光街道(国道4号)に出て左折し100メートル行くと一歩奥にこの昭和の建築のある街の景観が見えてくる。この街「北千住」は昭和の建築を今も大切に日常の生活の仕事の場として「NTT北千住」が使い続けているのだ。この建築は94年間ここに建っている。僕の母が今年95歳なので1歳の時に建ったし、この北千住は父が戦争に行く前まで生活していた土地だ。だから父もこの建物を見たり利用したことがあるかもしれない。ちなみに、父・松坂與市は陸軍の近衛兵第三部隊通信大隊という舞台に所属し赤紙くるまでこの北千住から品川の沖電気まで通勤していた。その関係で通信部隊に配属となったのであろう。20歳前半である。させ、この大きなラウンド、モダンな壁面と窓、1階と2階のコントラスト、イタリアのミラノの郊外にありそうな石の建築と中庭へ抜けるトンネル構造の持つ余裕。とても美しいし、優しい造形に魅了される。この建築は1929年竣工、建築家は山田守である。1929年はバウハウスの晩期、水谷武彦がバウハウスを退学した年だ。山脇先生は翌年に道子夫人とバウハウスに留学する。ところで僕は建築に詳しくないので、実は今まで建築家・山田守を知らなかった。調べて驚いた。山田守氏の作品は、今はないが東京中央郵便局(1925年)←美しいカテドラルのような建築だった。荻久保郵便局電話事務室(1932年)、東京逓信病院(1937年)、東京厚生年金病院(1953年)、そして日本武道館(1964年)、京都タワーホテル(1964年)となる。優雅な曲線が特徴の美しい建築が氏の建築様式であった。足立区には、この貴重な景観をいつまでも残してほしい。(撮影:2023年5月11日 Xperia8)

1-3.明治から令和の建築のある風景:上野公園の東京文化会館 前川國男(1905年-1986年)建築

上野駅の公園口の改札を出ると初めに見えるのが東京文化会館(1961年竣工)だ。僕は高校生の頃から、名称は知らないがこの巨大な建築の存在は気になっていたが、大学の頃からなんとなくバウハウスに留学した山脇巌先生(1898年-1987年)の手がけだ日大芸術学部の旧校舎(1965‐1971年完成)と同じにおいがすると感じていた。当時の郊外の広大な武蔵野美術大学とも多摩美術大学とも全く異なるこじんまりとまとまった都会の江古田の旧日大芸術学部の校舎の空間デザインが好きだった。特に、全学科共通の空間となっていた空間である入口の広場、中庭の空間、正門左手の図書館、右手の講堂、2層になっている中庭、ベランダの広い1階に学生課のあった文芸棟、学食など空間の工夫が楽しくて傑作であったと思う。江古田のそれほど広くない空間の中で様々な建築空間を体験できる校舎であったからだ。

話は戻るが、これは前川國男の設計である。前川國男は、対面の国立西洋美術館の設計を手掛けたル・コルビジェ(1887年-1965年)の弟子であり、公園の広い通路を挟んで並んで建っているこの光景は奇跡である。

改めてこの東京文化会館をみるとコルビジェの建築の5原則を具現化しているようなの味のある建築であると思う。外観においては他にはない特徴的は船の底を思わせるような分厚い屋根とそのひさしの稜線の大きなラウンドである。そのラウンドの稜線がぶつかる4つの角にできるシャープなエッジ。圧巻だ。(撮影:2023年3月 Xperia8)

1.明治から令和の建築のある風景:表慶 片山東熊(かたやまとうくま1854年-1919年)

片山東熊は辰野金吾と同時期に東大でジョサイア・コンドルから建築の指導を受けた。1888年京都国立博物館(京都)、1891年神宮農業館(三重)、1894年奈良国立博物館(奈良)、1907年仁風館(鳥取)、1908年国立博物館表慶館(東京)、1909年赤坂離宮(東京)、1909年赤坂離宮  1909年徴古館(伊勢神宮)、1911年高輪プリンスホテル迎賓館(東京) 竣工の設計をした。このように博物館の建築が多い。上野の国立博物館正門に入って左側に配置された旧国立博物館本館となる表慶館を見ることが出来るが、青銅のドーム型の屋根と豪華な様式美、シンメトリの建築で見ていて飽きない。美しい建築である。


1-2.明治から令和の建築のある風景:東京駅と日本銀行本店 辰野金吾(たつのきんご1854-1919

辰野金吾は1873年東大工学部に入学し翌年1877年イギリスより招聘した建築家ジョサイア・コンドル講師の下で建築を学んだ一人である1879年に卒業。その作風は明治時代の西洋様式建築であり現代の乾いた都会の景色に安心感、癒し、落ち着き、人間味を与えてくれる東京の風景の中で貴重な環境デザインの社会インフラである。1884年から東大の教授となった。1896年日本銀行東京本店(写真上右側)、1903年日本銀行大阪支店、1906年京都文化博物館/日銀京都支店/名古屋新聞 、1914年国鉄東京駅舎(写真上左側)竣工の建築を設計した日本の建築界の第一人者である。(撮影:2023年3月 Xperia8) 

1-1.明治から令和の建築のある風景:岩崎邸と東京復活大聖堂(ニコライ堂) ジョサイア・コンドル(1852年-1920年)

日本の建築の父と呼ばれたイギリス人の建築家ジョサイア・コンドルは1877年に東大造家学講師として招聘された。設計した建築は1883年に「鹿鳴館」1891年「東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)」(写真上下段)1894年三菱一号館、1896年「岩崎邸」(写真上上段)が竣工した。現存している建築は当時からの建築は東京復活大聖堂と岩崎邸である。岩崎邸の所在地は湯島。岩崎邸は見学可能である。その保存状態は素晴らしく見事な木造でありながら西洋の様式建築邸宅となっている。実は背景に借景にならない巨大な現代建築が建っておりアンダー気味に狙って映らないように隠した。東京復活大聖堂(ニコライ堂)を外観だけだが、じっくり見ることは初めてである。僕は1956年に隣の飯田橋の病院で生まれたので子供の頃からよくニコライ堂という言葉を耳にした。よって正式名称が東京復活大聖堂だったとは初めて認識した。現在は周りに高層建築が立ってしまい全貌を良い角度で見ることが出来ない。都市の景観に埋もれてしまっているのだ。これが東京の残念な建築の景観だ。明治時代には中央のドームが特徴で当時は周りに何もないところに立つこの大聖堂の景観を残してほしかったっと非常に残念に思う。東京復活大聖堂はお茶の水にあり様式は、わが国唯一のビザンティン建築らしい。にしても惜しい景観だ。(撮影:2023年3月 Xperia8)

1.明治から令和の建築のある風景:フランク・ロイド・ライト(1905年-1986年)

1.横河 民輔(横河グループ創業者) 

佐藤功一 

内田 祥三 

渡辺仁 

1.アントニン・レーモンド 

1.関根要太郎 

村野藤吾 

山脇巌 

1.水谷武彦 

1.坂倉準三(コルビジェ門下2) 

1.谷口吉郎 

1.吉村順三(アントニン・レイモンド門下) 

1.丹下健三(ライト門下) 

吉阪隆隆正(コルビジェの弟子3) 

芦原 信義 

1.内田 祥哉 

菊竹清則 

1.槙文彦 

1.磯崎新 

水谷 穎介(えいすけ) 

原広司 

谷口吉生 

伊東豊雄 

仙田満 

隈研吾 

安藤忠雄 

坂茂 

1.藤本壮介 

石上純也