■エッセイ

1.デザイン11人の先生の教えー1.友人の教え

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 高校に入学してまだ間もない1972年頃、それまで将来の進路という認識の無かった僕は、R教大学の経済学部に在籍していた兄のような進路が無難で同じような道をたどるのかなーと漠然と考えていたことを覚えている。すなわち、将来はつぶしの利く経済学を学んで企業に入ってサラリーマンになるかなー、なんていう漠然とした将来のことを想像していたことを記憶している。なぜサラリーマンかというと当時大企業が導入したての週休2日制度に魅力を感じていたからだ。中小企業の羽毛布団製造企業の役員であった父の方はまだしばらく週休1日制度がしばらく続いていた。ハードな労働状態を見ていたからだ。ただそれだけであった。そのような無知な僕が、高校の美術部という部活の時、先輩の影響で美大という進学先のあることを教えられた。運良く大学の芸術学部デザイン専攻に入学できた僕は、それまで美大受験のためのデッサンと油絵以外何も全く何も知識も経験もない状態であった。そのような丸腰で入学した仕打ちとして1年生前期の頃のデッサンの授業では一浪二浪がごろごろいる美大の実情を思い知らされた。デッサンは圧倒的に浪人生が上手かった。そこでは改めてデッサンの深さを同僚から学んだ。同じモチーフであってもデッサンの表現に出る個性という領域があった。それでも大学に入ってそれまでに経験したことのない楽しい充実した学生時代を過ごした。何も知らなかったからこそ毎日成長していく実感があったからだ。いままでに想像していなかったのは、大学の中での成長は制作を共に行った親友から学んだことが殆どであったことだ。誰に教わった訳でもないが、大学というところは自分で研究し学んでいくところだという認識があったので、スキルの修学以外はあまり先生から指導を受けるようなことは、希望していなかったように思う。先生の指導は課題の設定と作品の評価で十分ではないかと思っていた。僕たちコースのインダストリアルデザインの担任T.S先生は、当時まだ30歳代で専任講師であったが、公共物のデザインという課題が多かった。同講師は武蔵野美術大学の非常勤講師もを兼務しており、武蔵野美術大学において同講師に指導を受けていた同僚の評価はその講師の課題設定に高い評価を下していた。そのような理由で、僕が後に大学で教鞭をとることになったとき、僕の課題は公共物や環境のデザインに関するものが中心となった。その課題は総合的であり将来のデザイン経験として純粋で効果的であったからだ。僕は、中学の頃までは勉強に真剣に向き合った記憶がなかった。今にして思うには、何のためにするかという「目標」「理由」という動機づけが出来ていなかったからだ。モチベーションを上げる事が最重要でありながら、子供にやみくもに勉強しろと言っても効果はない。一方、予習復習の無かった美術の成績だけは「4」または「5」という僕は、予習復習の必要のない絵を描くことには自信があった。中学生の頃、すこし怖かったが美術の先生には、たびたび褒められた。その僕にとっては水を得た魚のようにデザインの勉強の大学の4年間は楽しくあっという間であった。毎日成長する実感っがあった。しかしながら、当時の僕を育てたのは行動を共にしていたあるインダストリアルデザインコースの2人の友人であった。もちろん、父母や兄弟、講師や周りの友人や先輩から学ぶことはあったが、将来の僕にとってデザインの先生として影響力があったのはこの2人であった。二人とも誰ともなく自然に集った。いつも行動を共にした。1年生の夏季休暇のときの膨大な課題も共に制作した。その経験は大きかった。

 この友人「二人が僕の最初の先生」であった。僕たちは、入学して間もない頃からいつのまにか行動を共にした。はじめは、どちらからともなく「Oくん」(2年からビジュアルデザインコースに別れ音信不通となる)、「A.Mくん」と行動が一緒になった。学食で飯を食っているのを見つけるとどちらともなく寄ってきた。後に、A.Mくんの告白によると一浪している彼は、先に大学にいった高校時代の友人の堕落ぶりを見て知っていたので、大学にいってから、浮かれて流されないように真面目そうな奴に近づいていった結果僕に近づいたというのだ。もちろん、高校生の雰囲気の残る真面目で、女子とも付き合ったこともなかったような垢ぬけない田舎の少年風の僕は真面目に見えたのであろう。その後、1か月ぐらいでデザイン各コースに分かれたみんなもグループのような物が自然にできる。  

 1か月のうちに、僕とA.MとOくんの仲に、未だどこのグループにも属していなかった横浜のH.Kくんが自然に加わってきた。ちなみに、A.Mくんは、日本橋出身で、日本橋三越百貨店(三越呉服店時代か)土地を譲って近所に移動したという珍しい話を聞いた。H.Kくんが参加してきた日のことをよく覚えている。お互い笑顔で仲間になった。特に、A.MとH.Kは浪人生活を経験していて、A.Mくんは子供の頃からNHKの工作の番組にレギュラー出演するようなデザイナーになるために生まれてきたような器用な経験もある奴であった。そのようなことで初め1年生の時はデッサンや基礎デザインで現役の何もかもA.Mくんに勝てなかったので現役であった僕らに対してほんの少しであるが、下に見るような言動があった。しかし、常にH.Kくんはそのような態度はその後も一切なかった。彼は高校生の時ワンダーフォーゲル部のリーダーでありそのような人柄で会った。当時はデザイン系の学科を持つ美大も今日ほど地方には広がってなく数が限られており、わが大学も参加する東京6美術大学クラスはどこも倍率が叩く、狭き門であり、結果、浪人生の入学比率が高くなっていた。僕のクラスメートでは3浪が数名いた。多くが最難関であった東京芸大を3年も落ちた人たちであり、一年生のデッサンの授業では彼らはスターであった。そのような浪人生もデザインの過程に入ると現役も浪人も同じスタート台に立った。僕の印象では、デザインの授業になるとむしろ現役生の方が優秀であった。結果論であるが。今日の僕を育てた最も影響力のあったデザイン先生は大学の二人の友人で会った。

(↓下記写真はいずれも友人との共同制作)