■エッセイ


1.デザイン11人の先生の教えー0.僕が成長できた理由

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 僕はインダストリアルデザイナーだ。令和5年4月現在66歳だ。

 22歳の時、新卒で巨大な総合電機メーカーのデザイン部門に就職し7年間働いた後に、中途採用で、当時も今も電機ナンバーワンの人気企業のデザイン部門に入れてもらい、その後27年間同社でデザイナーとしてあるいはデザインマネジメントとして仕事をし、時には海外で働き、55歳で早期退職した。その後は、光栄なことに採用いただいた芸術系の公立短期大学でプロダクトデザインの教員として9年間学生の指導をおこなった。社会に多くの学生を送り出した。そして、昨年春、定年退職した。

 僕の仕事は、インダストリアルデザインという「物」の理想形を追求する技術である。その理想の中には、機能として完璧であっても欠くことのできない役割は最終的に美しくなければならないという理想である。理想を追求するということは、常により高いものを求めるという動きであって、求めても到達することは無いが行けることを信じ、より近づくためにデザインと設計者、企画担当とのチームで上る山登りの様なものだ。

 僕等はプロダクトデザインの登山家だ。到達することの無い頂上には様々なルートがあり、各企業のチームによって、そのアプローチは異なるが他よりもより高いところを目指す。しかしながら、常に時間との戦いでもあって、日が暮れる前により高いところに行かなけれあならないのだ。それが納期というものだ。

 僕は高校生の頃、ある人に出会って美術系の大学に進学することになった。しかし、まだ純粋美術である絵画と応用美術であるデザインのどちらに進むかは受験の結果次第という、運は天に任せるような、いい加減なものであった。しかしながら、なんとなく浪人は避けたいと思っていたし、いや、父が浪人は敬遠してるのを感じていたので、現役で行けるところに行くという気持ちであったと記憶している。といっても、高額な私学であっても可能という恵まれた環境であった。30年後、自分が子どもを持った時、親にとって、年間150万円近い学費はおおきなおおきなプレッシャーであり父の思いが分かった。一年浪人して良い結果が出るとは限らないからだ。浪人しても塾などで高額な学費はかかる。卒業が伸びるだけ大きな金額が出ていく。国立の東京藝大に入れればよいが、超難関である。我が家は息子の長男が一浪したが、画塾という美大受験のデッサン予備校の学費も、私大並みに高いのだ。だから二浪三浪をさせてくれる家庭は、凄く恵まれている。長い浪人中に挫折する人、遊んでしまう人も相当いるだろう。そのような状況で受験を通る事に精一杯で、進学後の授業には不安はあった。

 大学に入ると、それまでの高校の世界とまるで違う世界が待っていた。中学生の頃、僕は美術の授業だけは苦痛に思ったことがなかった。水彩で描く課題は、気が付くと不思議と周りに褒められた。いつの間にか自分は美術が得意なのだ、という認識を中学生の頃に感じていた。絵画は誰に教わった訳ではないが、なんとなく高校の美術部に入ったのが、今にして思えば人生の岐路で会った。そこで初めて、デッサンというものを知った。石膏像というものも見た。高校の美術部なのでみな経験は無く、どんぐりの背比べであったが、そこの先輩方がみなフレンドリーで幸運であった。高校卒業後も関係の続いたクラスメートは無かったが、美術部の先輩とはその後もしばらく続いている。先輩方で唯一舞台美術の世界で成功したJ.A先輩は社会人になってからもコンタクトをとった。

 そのように大学に入るまで何も知らない、知識も技術もなかった僕であるが、当時の同僚でデザインの世界でいまだにデザイナー現役の人は殆度いない。いるとしたら、大学時代のゼミ仲間で尚且つ、社会人になっても同じ会社で世話をしてくれた恩人H.Oくんだけであろう。

 H.Oくんは僕のプロになってからのデザインの先生の一人である。1986年、たまたま縁があって、僕は、前の会社を退職しH.Oくんの勤務していた業界ナンバーワンの企業「S社」に入社できた。そのきっかけは、大学時代のある非常勤講師の家が全焼し大変だという事を友人から伝え聞いて僕らの同僚が週末に火事場の手伝いに集まったからだ。その時、ゼミ仲間の仲の良かったH.Oくんも来ていた。その日は同窓会の様になった。その日は5人ぐらい集まっただろうか。そのあと、H.Oくんの家に集合という事で各々車で来た友人の車に分乗した。その時、僕は久しぶりに会ったH.Oくんが誘ってくれて彼の車に乗ったのだ。その社内で、お互いの会社のことについて情報交換したのだったが、当時、僕はT社の家電グループで封建的な上司の采配をリスペクト出来ずに抵抗していた。しかし、H.Oくんの企業はパラダイスのようであった。

 なぜ、当時上司に抵抗したかというと、ディレクションに疑問があった。夢に描く家電のデザインはシャープやパナソニック、サンヨーのようなインダストリアルデザインができると思っていたが、時代遅れのつまみの部分のアルミ銘板に花柄を上手に描けたり、イラストレーターで書いたように見せたいという事で手書きながら画一的な波形を描くと上手いと評価されるように、フェイクのコスメティックがメインであった。情けなかった。しかし、世間では1980年代にはすでに世界的なミニマルなジャパンデザイン「無印良品」がデビューしていた。今日ほど家具や家電がそろってはいなかったかもしれないが、ブランドのない、余計なものはつけない、加飾のないことがブランドアイディンティティーといういかにも日本的で知的で繊細なセンスを感じるブランドと対比しても尊敬されないクオリティーだった。さらに、当時若かった僕はデザインの仕事で、忙しくてつらいことは全く問題なかったし、休みも不要でどんどんデザインの仕事がしたかった。ところが、家電のそのチームでは残業代をカットするという理由で、殆ど定時17時で帰宅させられた。僕の思っていたデザインの仕事は時間も忘れてデザインを追求したかったのだ。大学時代には先輩の紹介で目白のデザイン事務所GKデザインの模型作りのアルバイトをさせていただいた。優秀なGKデザインのプロの仕事を手伝えるという貴重な場をいただいた。そこでは、本当に大きな経験ができたこと、学ぶことが出来た。特に、アルバイトで呼ばれる時は、締め切りに間に合わ無い時で、僕らが呼び出されて、徹夜して模型を作り翌朝依頼者のデザイナーが、プレゼンテーションのために模型をハンドキャリーで企業に向かう、といった働き方でありかっこよかった。これぞ僕の思い描いていたデザイナーの仕事だった。

 大学1年生の頃、将来今のようにデザインを仕事にして数々の製品を担当したりデザインマネジメントをさせてもらったり、まして定年前に早期退職するも大学で積み上げた経験と新しいデザインとの出会いで研究をする現在の自分を想像すらすることは出来なかった。知っていたらもっともっと気持ちは楽であったろうが、常に危機感を持ち続けていたこと、何よりも、ぼくを育ててくれた僕の周りのデザインの先生の存在があったからだ。


 僕の様な全くの素人を育ててくれた「デザインの先生の教え」を纏めてみたいと思った。それはこれからデザインの入口に立っている若い人たちに、僕のデザインの登山を登った時に学んだ事例を、すこしでも参考にしていただければ嬉しいと思う。